高校野球とは

Fマークに込められた想い

Fair play(フェアプレー) Friendship(友情) Fighting spirit(闘志) 「三つのF」 高校野球がめざすもの

日本高等学校野球連盟の旗に描かれているのは、ホームベース、白球、そして「F」マーク。

「F」は、連盟を意味する「Federation」の頭文字です。

さらには、
「Fair play」(フェアプレー)
「Friendship」(友情)
「Fighting spirit」(闘志)
にも通じています。 Fマーク

この「F」マークの連盟旗は、戦後間もない頃に誕生しました。
その過程を振り返ると、高校野球を通して日本高野連が目指している理念が浮かび上がります。

終戦の日の決意

明治時代に日本に伝来した野球はやがて全国的に広がり、1915(大正4)年に夏の全国中等学校優勝野球大会(選手権大会)が、1924(大正13)年には春の全国選抜中等学校野球大会(選抜大会)が始まりました。 戦前は、夏は朝日新聞社が、春は毎日新聞社が単独で大会を主催していました。しかし、1941(昭和16)年春を最後に、戦争の影響で両大会は中断します。

戦後、両大会の復活、日本高等学校野球連盟の前身となる「全国中等学校野球連盟」設立のキーパーソンとなったのが佐伯達夫さん、後の第3代日本高野連会長です。

佐伯さんは大学生のときに大会の審判員となったのを機に中等学校野球にかかわり、自身の仕事を持ちながら、両大会の運営を取り仕切る役員を務めていました。

1945(昭和20)年8月15日。昭和天皇が戦争終結の詔書を読み上げられた玉音放送を奈良公園の茶店で聞きます。当時53歳でした。そして、次のように考えたと「佐伯達夫自伝」にはあります。

「戦争は負けたんだ。間もなく連合軍も進駐してくるに違いない。過去にない初めての経験に巻き込まれた日本国民は“負けた”ということで大混乱するかもしれない。衣も食も住も、かつてない欠乏。戦争中次第に苦しさは激しくなってはいたが、もっとひどくなるだろう。敗戦の苦しさは底知れぬ深さをみせることだろう。おとなたちが、どうしていいかわからず、まごついていれば青少年たちは一層迷うことだろう。おとなは、あきらめもしよう。時の経過とともに決断し、立ち直ってくることにもなろう。だが、青少年たちは果たしてどうだろう。若々しい勇ましさはあるが、生一本な幼さから全くは抜けきれない年ごろとも言える。一たび道を踏み誤れば、やけっぱちになるものもたくさん出て来る恐れがある。が、青少年たちをそんな迷路に追い込んではならない。私のできる方法、手段で青少年たちを正しい進路を踏みはずさぬよう真っ直ぐひっぱっていくべきだと思う。健全な身体にこそ、健全な精神は宿るというが、それには何よりも野球だ。めいめい自分勝手なことを考えていては、敗戦のどん底から立ち上がれない。チームワークの尊さを青少年たちに体得させたい。そうすれば、みんな自然に正しい道を進むことができるだろう。苦難の道を克服できるに違いない。新しい日本、正しい民主社会をめざせばめざすほど、そこに大切なのはチームワークだ。もちろん、身体も鍛えられ、立派に育ってくれることだろう。その大きなハシラになり得るのが野球だ。そうだ。野球だ。敗戦で混乱しきった世の中を、中等学校野球で立て直すのだ。伝統と権威に耀く夏の大会を、まず、ぜひとも速やかに復活させたい」

敗戦で混乱しきった世の中を野球で立て直すため、速やかに大会を復活させたいと考えた佐伯さんは翌日、朝日新聞大阪本社を訪ねました。前日の決意を語り、夏の全国中等学校優勝大会を再開するよう訴えました。

あまりにも唐突な申し出に、朝日新聞社側は「いずれそのときが来たら、よろしくお願いします」とだけ答えました。終戦の翌日に新聞社に出向き、野球大会復活の話を持ち出す。かなり大胆な発想と行動力です。

朝日新聞社提供 戦後初めて再開された第28回全国中等学校優勝野球大会は終戦からちょうど1年の1946(昭和21)年8月15日、兵庫県西宮市の阪急西宮球場で開幕した。阪神甲子園球場は連合国軍に接収されていた
窮乏のどん底から

その年の11月ごろから翌春にかけて、佐伯さんや朝日新聞社の関係者は〝三等の鈍行列車〟に乗り、全国各地を回ります。自分たちの目で地方の実情を確かめていきました。

当時の状況は、「日本高校野球連盟 三十年史」にこのように記されています。

「中等学校のグラウンドや球場は、全国どこもかしこも、水田やイモ畑、そば畑、麦畑、大豆畑などに変わっていた」
「材料置き場や軍需工場が建てられた元球場もあった」
「グラブをもっている人自体わずかだったが、それも傷だらけ」
「軟式用のものに軍手をはめたり、手ぬぐいを入れたりして改造したもの、毛布を細工して綿を詰め込んだり、代用ミットや手製のグラブなども多く見られた」
「縫い目が擦り切れたボールは木綿糸で何度も縫い合わせて使った」
「折れたバットもお払い箱にはせず、釘を打ってテープを巻き、ささくれたヘッドには五分釘を一面に打ち付けたりして練習時に使ったところもある」
「野球帽なく、坊主頭か、学帽または、ありあわせの帽子」
「長そで、半そでのシャツや、同じ長そでものでも、エリのあるものないものがまじっているもの」
「学生ズボン、ストッキングなしの素足」
「スパイク代わりに、地下足袋」
「わら草履で練習にいそしんでいたチームもある」

日本の社会全体が窮乏している、そんな中で野球大会を復活できるのか。全国の状況を調べた結果、それでもなんとかやれるのではという結論になりました。1946(昭和21)年1月21日の朝日新聞紙面に、大会の開催社告が掲載されます。

「全国中等学校優勝野球大会 今夏から復活開催 社会情勢の許す限り」

「明朗さを取り戻したい」

大会に向けて規則の解説書、「最新野球規則(付)質疑応答」が急きょ、編集されました。監修した学生野球指導者の飛(とび)田(た)穂(すい)洲(しゅう)さんによる序文には、学生野球の再興に賭ける強い思いが表れています。

「変転極まりなき世相、末世を思わせる人心の悪化、それが戦後日本の姿である」
「ことに将来、日本を代表せねばならぬ青少年のたいはい的気分に、一種の戦りつさえ覚える。彼らは突如として目標を失った」
「何よりも暗雲を一拭して、長い間戦争によって失われていた明朗性をとりもどさねばならぬ」
「若き人々に、手っ取り早く明朗たる気分を植え付けるもの、まさにスポーツ以外にはない。広いグラウンドのまん中に立って、外気を吸い、天日を浴び、無我の境に入ってゆううつを感ずるものがあるであろうか。
われわれは、一日も早く中絶されていた各種スポーツを復活して、日本人らしい快活さをとりもどさねばなるまい。復興されるスポーツのなかに、野球もまた明朗人生への一役を買って出るべきは言うまでもない」

生きがいや目標を見失いかけている若者たちのために――終戦の日、佐伯さんが抱いた気持ちと同じです。終戦直後の混乱と窮乏のなか、それでも、若者たちのために大会をやろうと先人たちは考えていました。

大会復活

終戦の日からちょうど1年後の1946(昭和21)年8月15日。

全国から19代表が出場して第28回全国中等学校優勝大会が開かれました。空襲で大きな被害を受け、戦後は進駐軍に接収されていた甲子園球場は使えなかったものの、西宮球場には大勢のファンが来場しました。

この年の地方予選に参加したのは745校。戦前の最多675校(1934年第20回大会)を上回る数字でした。終戦からわずか1年という状況からすると、とても多いと言えます。

さまざまな困難に直面しながらも、野球をしたいと願った球児たち、野球を見たいと思った国民がたくさんいた、ということです。

朝日新聞社提供 第28回全国中等学校優勝野球大会の開会式で入場行進する選手たち。19地区の代表校が出場した
連盟設立-「自主・自律」の運営へ

戦前の学生野球は人気が過熱するあまり、選手の引き抜きや派手な遠征、学業軽視なども目立つようになりました。これらに対し、文部省は1932(昭和7)年3月、「野球統制令」を発します。同時に、学生野球を統括する団体の必要性も指摘されていました。1931(昭和6)年には、関係者による会議が開かれ、中等学校野球連盟設立の方針が示されるなど統括団体創立への動きはあったものの、最終的には立ち消えとなっていました。

戦後、府県連盟を組織化するのは困難な地域もあり、大会再開を目指すために全国組織の立ち上げが急がれました。1946(昭和21)年1月、全国各地での連盟づくりの中心となる人々を大阪に招集して組織作りについて討議し、そして2月、日本高野連の前身となる全国中等学校野球連盟が誕生しました。これが、大会復活への大きな足がかりとなりました。

同じ年の12月には、現在の日本学生野球憲章の土台となる「学生野球基準要綱」も作られ、戦前の統制令は1947(昭和22)年5月、廃止されました。

民間主導で学生野球を統括する競技団体を創設し、当事者たちの手でルールを作る――戦前からの〝宿題〟をようやくやり遂げ、「自主・自律」への道が開かれました。

連盟旗の誕生

全国中等学校優勝大会が、連盟と朝日新聞社の共催で復活すると、毎日新聞社も翌年春の全国選抜中等学校大会の復活に向けて動き出しました。しかし、それに対して難色を示したのが連合国軍最高司令部(GHQ)でした。問題視されたうちの一つが、民間企業である新聞社が主催となっているという点でした。そして、もう一つのGHQの言い分は、一つの競技で全国大会を1年に2回も行う必要はない、ということでした。それでも、佐伯さんらは粘り強くGHQと交渉し、選抜大会から「全国」という言葉を削除する工夫などもして、最終的に選手権大会と選抜大会の両方を開催する内諾を取り付けました。

そのような状況下で生まれたのが、連盟旗です。球場に掲げる旗が必要だとして、ホームベースに連盟(Federation)の頭文字「F」を中央に置くデザインを毎日新聞社が考案し、製作しました。1949(昭和24)年春、戦後3回目の選抜大会で初めて、「F」マークの旗が甲子園に翻り、連盟主導の大会を印象づけました。

毎日新聞社提供 戦後3回目の選抜高等学校野球大会は1949(昭和24)年4月1日、阪神甲子園球場で開幕。この大会から連盟旗が登場した
「三つのF」

連盟旗の「F」は「Federation」だけでなく

「Fair play」(フェアプレー)
「Friendship」(友情)
「Fighting spirit」(闘志)

--という意味にも通じています。今ではこれらを「三つのF」と呼んでいます。

1976(昭和51)年発行の「日本高校野球連盟 三十年史」では、Fマークについて以下のように紹介されています。

「高野連のマークはホームベースに白球を型どり、中央のFは前記(フェデレーションの頭文字“F”)の意味のほかに、フェアプレー(Fair Play)、フレンドシップ(Friendship)、ファイト(Fight)にも通じ、深紅の色彩は若人の熱情を示す色でもあり、精神力、体力、技術の総合力の比較といわれる野球競技の組織団体のマークとしては、もっともふさわしいデザインといえよう」

この「三つのF」をいつ、だれが、どこでいい始めたのかは、わかっていません。ただ言えるのは、この「三つのF」は高校野球の理念そのものだということです。

日本高等学校野球連盟旗

1949(昭和24)年に制定された(旧)日本学生野球憲章の前文の一節は、現行の憲章にも引き継がれています。

「学生たることの自覚を基礎とし、学生たることを忘れてはわれらの学生野球は成り立ち得ない。勤勉と規律とはつねにわれらと共にあり、怠惰と放縦とに対しては不断に警戒されなければならない。元来野球はスポーツとしてそれ自身意昧と価値とを持つであろう。しかし学生野球としてはそれに止まらず試合を通じてフェアの精神を体得する事、幸運にも驕らず悲運にも屈せぬ明朗強靭な情意を涵養する事、いかなる艱難をも凌ぎうる強靭な身体を鍛練する事、これこそ実にわれらの野球を導く理念でなければならない」

そして、現行の憲章の第2条(学生野球の基本原理)では、学生野球の理念をこう定義づけています。

②学生野球は、友情、連帯そしてフェアプレーの精神を理念とする。
⑧学生野球は、国、地方自治体または営利団体から独立した組織による管理・運営を理念とする。

戦後、生きがいや目標を失いかけている若者のたちのためにと大会を復活させ、主体的な運営のための全国組織(全国中等学校野球連盟、現在の日本高等学校野球連盟)の立ち上げに奔走した先人たちの意志は、この「三つのF」に収斂されています。

「自主・自律」をモットーに、「フェアプレー」「友情」「闘志」という「三つのF」を、野球を通じて若者たちが体得できるよう努力していく――そのことこそが、日本高校野球連盟の使命です。

そして、高校野球にかかわるすべての人に、上記のような経緯のもとに生まれた「三つのF」を胸に刻んでほしい、と願っています。

高校野球とは