加盟校の皆さんへ

高校野球みんなの手引き

令和5年度より、「高校野球みんなの手引き」というページを作成いたしました。

ここには高校野球関係者(指導者・審判委員)はもとより、多くの皆様にも知っていただきたい公認野球規則の改正とその解説、アマチュア野球内規、高校野球特別規則、高校野球用具の使用制限などについて掲載しています。

2025年2月21日 更新

これらの内容の元となっているのは「高校野球審判の手引き」という、当連盟が発刊しているハンドブックです。より多くの皆様にもご覧いただけるようにホームページ上に掲載することとしましたので、ぜひご活用ください。

2025年2月21日 更新

正確なジャッジとスムーズな試合運び

公益財団法人日本高等学校野球連盟
会長 寶 馨

本書「高校野球審判の手引き」は、2年に1度改訂を重ねながら長年にわたって使用されてきました。「審判の手引き」という名称ではありますが、審判委員のみならず、高校野球の指導者、部員、高校野球大会の運営に携わる連盟の役員、関係者、事務職員、マスメディアの方々にも是非目を通しておいていただきたいものです。冊子体は、手のひらサイズのいわゆるハンドブックのような体裁であり、持ち運びや使用に便利なようになっています。この冊子の内容や考え方をさらに広く普及するため、高野連のホームページに「高校野球みんなの手引き」というページを令和5年より作成しました 。 一般の方々にもお読みいただけるようになっています。このページには、公認野球規則の改正とその解説、アマチュア野球内規、高校野球特別規則、高校野球用具の使用制限などについても掲載しています。

さて、大学生や高校生は、学業を本務とし家族の支援によって生活し、学校内における課外活動としての野球に取り組んでいます。とりわけ高校生は、 15歳から18歳という年齢層であり、精神的にも肉体的にも成長途上でありますから、この高校野球の期間に正しい野球の取り組み方を学び、心・技・体の鍛錬をし、野球選手としてのみならず、高校を卒業した後の人生においても様々な形で社会に貢献する人間に育ってもらいたいというのが、我々の願いであります。

高校野球の審判は、このような発達途上の高校生の試合において、単にプレーのアウト・セーフ、ボール・ストライクの判定をするだけではありません。正確なジャッジと、選手を励ましつつ適正な行動を促して、きびきびとした清々しい試合運びを高校生とともに作り出すことを心がけています。高校野球を観戦する各位にも、選手と審判が一体となっての溌剌とした試合ぶりに共感をもたらし、今日までの高校野球人気につながっているとも言えましょう。

昨今、野球の試合時間の長さが問題視されています。米国ではピッチクロックを導入し投手の投球間隔を極力短くしようとしたり、日本の大学野球や社会人野球でも攻守交代時の計時をして1分40秒経過したら投手の練習投球はあと1球だけというふうにしたりしています。高校野球では投手の投球間隔も攻守交代も迅速に行っているので、現時点ではこれらの方法は採用していません。

従来、大会運営のご担当者、審判委員の皆さんが中心となって試合時間短縮に尽力してこられましたが、今後は、指導者、選手の皆さんもより一層時間短縮に努力・協力していくことが必要だと存じています。

審判は試合の進行役でもあります。各自が審判技術の向上に不断の努力が必要であることはもちろんですが、スムーズな試合運びを演出することも求められます。その際、審判団のチームワークも重要です。この観点からもまだまだ改善の余地は残されています。こうしたことも考えながら、日々研鑽に努めていただきますようお願いいたします。

イニングについて

ノンフィクション作家
佐山 和夫(日本高等学校野球連盟顧問)

野球のイニング数を7にするか、9を続けるか、について、様々な意見が出されている。どちらの意見にも正当な言い分があるから、議論は十分に尽くされる必要がある。

野球のルールの話になると、どうしても出てくるのがアレクサンダー・カートライトだ。最初の球団とされるニッカーボッカーズを作った彼は、イギリスのラウンダーズに手を加えて、ニューヨーク・ゲームという野球の原型を作ったからだ。ラウンダーズはアメリカではタウンボールと呼ばれ、それにはいくつかの種類があったが、彼らのゲームが一般的に広がったのは、彼らはルールを紙に印刷し、他からの問い合わせに、それをもって応えたからだ。

そんなところから、野球の基本的ルールのすべてがカートライトによって作られたように見られているが、それは事実ではない。

たしかに、彼は1845年9月23日にニッカーボッカーズを発足させてはいる。基本ルールも決めた。しかし、それ以後はゲームの育成には深くは係わらなかった。なぜなのか。

カリフォルニアで発見された金鉱の噂に心を奪われてしまったからである。事実、彼は1849年3月1日、 幌馬車に乗って金鉱を目指し、ニューヨークを去ってしまった。

そのあとを任されたのが、ドック・アダムズやルイス・ワズワースだった。ドックとは医師だった彼の愛称だが、今もって本名のように使われている。ちょうど、野球熱が広がり始めた時期だったから、彼の役目は大変だった。新規球団を仲間に入れて、彼らはたびたび会合をして、ルールを検討している。賭け事をなくすこと。平らな面をもったバットを禁止すること。フライボールをワン・バウンドで捕ってもアウトだったのをやめること。それらのルール変更に気をとられ、ゲームの終わり方には、あまり関心は届いていない。

それまでは、 21点をゲーム終了のメドにしていたのを、 1857年1月22日の会合で、ニッカーボッカーズ案に従い7回制(メンバーは7人以上)と決めた。12対12のまま日没になった試合のあったことが、直接の原因だった。

ただし、すぐに8回制が試行されたりして、約1カ月後の2月25日には9イニング制へと変更されている。この会合に集まったのは、所属16球団中の14。そして、5月にはドックはこの最初の野球連盟の会長に。のちに、プロ志向の者を排除しようとして、逆に自分たちのニッカーボッカーズが組織から追い出される運命を持つ。しかし、ショートストップというポジションを考案し、初めてそこを守ったのも、現在の硬球の表皮デザインを決めたのもドックだった。他にもファウル・ボールについてのルールや、塁間の距離等々、決めるべきことが多すぎた時代の彼の苦労は、想像を絶する。押し寄せる移民と大混乱の時代の波の中で、野球の健全性を死守しようとしたドック・アダムズを、「野球の父」と呼ぶ人は多い。

加盟校のみなさんへ