長い〝断絶〟からの雪解け、協調へ
プロ野球と高校野球は現在、野球の普及・発展のために協力しています。現役プロ選手が高校生に技術指導する「夢の向こうに」の開催や、プロ側からの使用済みボールの提供、元プロ野球選手の学生野球資格回復制度の創設……。ただ、このような活動が始まったのは2000年代初頭です。戦後はずっとトラブルが続き、関係が悪化していました。長い〝断絶〟を経ての雪解け、そして協調へと至った経緯と現状を4回に分けて紹介していきます。
初めて開かれた「夢の向こうに」。壇上で高校生に打撃指導をする中日・立浪和義内野手=2003年12月26日、大阪市の大阪国際会議場(毎日新聞社提供)
制限が厳しくなったプロとの接触
日本で最初に誕生したプロ野球の球団は、米大リーグ選抜との対戦を機に1934(昭和9)年12月に発足した「大日本東京野球倶楽部(現・読売ジャイアンツ)」です。その後、球団は増え、1936(昭和11)年2月の全日本職業野球連盟(現・日本野球機構)創立により、リーグ戦が本格的にスタートしました。
全日本職業野球連盟の誕生を伝える東京日日新聞紙面=1936年2月6日
さきに興隆していた学生野球はその当時、全国中等学校優勝大会(現・全国高校野球選手権大会)はすでに22回、春の選抜大会も13回を数え、オープンして約10年たった甲子園球場は連日、大にぎわいでした。
しかし、学生野球の人気が過熱するあまり、選手の引き抜きや派手な遠征、ブローカーの介在、学業軽視などが問題となります。
これらを規制するため、文部省が1932(昭和7)年に発したのが「野球統制令」でした。野球統制令では、学校選手と職業選手の試合についても、「学校長および文部省の承認がない限り、できない」とし、試合のみを禁止していました。
終戦の翌1946(昭和21)年、当時旧制の中等学校(現在の高校)以上の学生野球の団体を統括する日本学生野球協会が発足。同じ年に定められた「学生野球基準要項」では、元プロ選手との試合も禁止しましたが、指導に関する規定はありませんでした。
実際、現役プロ選手らがシーズンオフに母校などへ指導に行っていたとされています。
しかし、4年後の1950(昭和25)年に制定された「日本学生野球憲章」では、現役・元プロ選手に指導を受けることが禁止されました。
さらに15年後の1965(昭和40)年には憲章が改正され、プロの監督やコーチ、審判員のほか関係者にまで対象が広がり、練習したり、審判を務めてもらったりすることも禁止となりました。
職業野球が誕生した1936年、夏の第22回全国中等学校優勝大会を前に大規模改修された甲子園球場の外野に「ヒマラヤスタンド」が誕生。外野席の収容人員は約1万人から約3万人に増えたものの、超満員となる日が続いた(朝日新聞社提供)
入団を巡るトラブル相次ぐ
終戦間もない頃から1960年代にかけて規程が厳しくなっていったのは、以下のようなプロ野球入団にまつわるトラブルが相次いだためです。
◆西京商問題(1948年)
1948(昭和23)年10月、国民体育大会で優勝した京都一商(西京商)の投手が「卒業したらプロに行く」と発言。これに対し、主催する日本体育協会(現・日本スポーツ協会)は当初、「プロに行くと言ったらそれはもうプロだ。国体の優勝を取り消せ」と主張した。
さらに二重契約だったことが判明。父親に委任された監督が阪神タイガースと入団契約を締結。その後、父親はより高い契約金の大陽ロビンスとも契約し、日付も偽造していた。両球団が告訴するなど対立したが、阪神が他に争っていた選手と契約し、大陽が西京商の投手と契約するという妥協が成立した。
全国高校野球連盟(現・日本高校野球連盟)は同年12月、西京商に対して「高校野球に多大な迷惑をかけたことに対してその責任を痛感すること」、プロ野球団には「純潔なる高校野球界に今後永遠にこのような悪影響を与えることを慎んでもらうよう切望すること」を求める決議をした。
一方、国体前にプロ野球と契約していたことを重く見た日体協は翌1949(昭和24)年3月、「西京商の投手はアマチュア規程に照らしてプロフェッショナルとする」「高校野球競技の全記録を抹消する」ことを決議した。
全国高野連はその後、プロ入り交渉のために国体出場を辞退する選手が出れば、そのチームの推薦を取り消すなど、より厳正に対処することとなった。
◆佐伯通達(1955年)
1955(昭和30)年夏、全国選手権大会に出場した選手17人で編成された全日本選抜チームがハワイに遠征。出国前に合宿していた東京の学生野球会館の1室をプロ野球のスカウトが借り切り、選手を食事に誘い出したり、東京駅に着いた保護者を歓待するために車で迎えに行ったりした。羽田空港にも見送りに来て、選手に餞別として金銭を渡した者もいたとされる。
その状況に強い危機感を抱いた全国高野連の佐伯達夫・副会長は、選手の出身高校の校長や保護者、都道府県連盟の会長らに宛てて、出国直前の状況を伝え、帰国後、「選手たちの身辺を守ってほしい」と依頼する以下のような文書を送った。
「高校野球は決してプロを養成するのが目的ではありません。野球を通じて将来日本のために役立つ立派な人間をつくる以外には何ものもないのであります」
「前後の見境もなく目先の誘惑にまどわされてプロ選手となるような者が続出するようでは私どもが骨身を惜しまず努力している意義は全くないのであります」
「家庭のためとかその他の事情も考えられないこともないのですが余りにも物質欲に走り過ぎて高校生の純真な気持ちを傷つけないようにお願いしたいと思います」
選抜チームの選手17人のうち11人がプロ野球に進んだ。
ハワイでの試合前に記念ペナントを贈る日本選抜チームの選手=1955年9月5日(朝日新聞社提供)
プロ・アマ関係に決定的な亀裂
1961(昭和36)年4月1日、全国高野連は、基盤整備のために新たに財団法人「日本高等学校野球連盟」を設立しました。くしくもその年、プロ野球と社会人野球との関係に大きな亀裂を生む「柳川事件」が起きます。プロ・アマ〝断絶〟の契機になったとされる出来事です。そして、高校野球でもプロ入団にかかわる深刻な問題がありました。
◆柳川事件(1961年)
日本社会人野球協会とプロ野球側は、シーズン中(3~10月)にプロ側は「社会人選手を引き抜かない」などの協定を毎年、結んでいた。1960(昭和35)年、社会人側が新たに「プロ野球を退団した選手は翌年秋以降でないと、社会人チームに登録できない」「受け入れは1チーム3人まで」などの提案をすると、プロ側は拒否。プロ側からの見直し申し入れに、社会人側も応じなかった。
協定がないまま、翌1961(昭和36)年のシーズンを迎えた4月20日、中日ドラゴンズが突然、日本生命の柳川福三・外野手と契約を結び、入団を発表。これに強く反発した社会人協会は4日後の緊急役員会で、以後一切のプロ野球退団者の受け入れをしないなどの対抗措置を決めた。
◆大分・高田高校問題(1961年)
1961年夏、全国選手権大会に出場して初戦で敗退した大分・高田の投手が地元に戻った際に記者会見し、中日ドラゴンズへの入団を発表した。先に交渉していた大毎オリオンズが投手側の銀行口座に送金するなどして両親の内諾を得ていたが、中日側は大毎との内諾が明るみに出ると選手権大会に出場できなくなると言って契約を迫り、手続きを行った。
大会前にプロと契約し、しかも大会期間中の入団発表はきわめて悪質だとして、日本高野連は同校に当面の試合禁止を申し渡した。同年11月、日本学生野球協会審査室が正式に、1年間の対外試合禁止とする処分を決めた。
双方の代表者ら国会招致
社会の関心も高く、プロ野球に関係する事件やトラブルが相次いでいることを重くみた衆議院法務委員会が、プロ・アマ双方の代表者を参考人招致しました。
日本高野連の佐伯副会長(当時)、日本社会人野球協会(現・日本野球連盟)の常任理事、日本野球機構(NPB)の参事、セ・パ両リーグ会長の計5人が1961年11月14日、国会議員の質問を受けました。
高田高校の問題では、一人の委員が「プロ野球と無関係で過失がない選手にも、大会出場を1年間禁止するのは人権侵害だ」と指摘しました。これについては、地元の人権擁護委員協議会も疑問を呈していましたが、同年12月、大分法務局が「チーム員のルール違反はチーム全体で責任をとるのが常識である」という趣旨の見解を示しました。
法務委員会では、プロ野球関係者に対し、「契約金の高騰が球団の経営を圧迫しており、ばかげた獲得競争は社会問題化している」「全球団、連盟が協議して是正を図るべきではないか」という趣旨の指摘がありました。
プロの指導、社会人・大学野球はOKに
1965(昭和40)年、プロ野球はドラフト制度を初めて採用しました。4年前の国会でも指摘されたように、高騰していた契約金を抑制するというのが主眼で、球団間の戦力均衡も図るという狙いでした。新人選手の最高契約金は1000万円といったことも決めました。
東京・有楽町の日生会館で行われた日本プロ球界初のドラフト会議=1965年11月17日(毎日新聞社提供)
4年後の1969(昭和44)年3月、セ・パ両リーグの会長が社会人協会の会長を訪ねて協議を再開し、「お互いの立場を理解し、共存共栄の精神で協和点を見出す」と表明しました。
両者は、社会人のシーズン中のプロ入りや交渉の禁止、ドラフトで指名権が確定した選手の交渉期間のほか、「社会人チームからの申請、審議を経れば元プロ選手から年3回(1回につき2週間以内)、コーチを受けられる」「社会人の新規登録者は2年間、プロ選手契約ができない」ことなどで合意しました。
全日本大学野球連盟も、元プロ選手からコーチを受けられる規定を定め、「年3回(1回につき3週間以内)、当該大学OBから指導を受けられる」としました。
一方、日本高野連の佐伯達夫会長は、各都道府県連盟の理事長が集まる会議で「改めて学生野球はプロ野球との間に厳格な一線を引くべきだ」という方針を示しました。
その後、関係者らの努力により、高校生も、プロ関係者から指導を受けられるようになるまでには、さらに30年以上かかりました。
第1回の「夢の向こうに」で投球動作を交えて質問に答える阪神・井川慶投手=2003年12月26日、大阪市の大阪国際会議場(朝日新聞社提供)
「プロ野球と高校野球【2】」では、プロ野球現役選手によるシンポジウム「夢の向こうに」を紹介します。