創設者が野球に込めた若者たちの未来への思い
阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)は今夏、開場100年を迎えます。1924(大正13)年8月1日、「甲子園大運動場」として誕生した当初から、観客5万人以上を収容する能力があり、内野席の大半を覆う「大鉄傘(だいてっさん)」も備えていました。当時は日本にまだプロ野球は誕生しておらず、学生野球が人気を博していた時代。完成直後に「第10回全国中等学校優勝野球大会」(選手権大会)が行われ、翌25(大正14)年春には「第2回全国選抜中等学校野球大会」(選抜大会)も催されました。
高校野球の舞台として産声をあげ、幾多の名勝負が繰り広げられ、今では「高校野球の聖地」とも呼ばれる甲子園。100年も前になぜ、“東洋一の大球場”とも称されるほどのスケールの大きな球場がつくられたのでしょうか。創設の中心となった阪神電気鉄道代表取締役の三崎省三(みさき・せいぞう/1867~1929)の生涯をたどると、野球を通して日本の若者たちを育てていきたいという、熱い思いが浮かび上がってきます。
ベースボールへの憧れが原点に
三崎省三は兵庫県黒井村(現・丹波市)の出身。1886(明治19)年、19歳のときに単身アメリカに渡り、サンフランシスコでアルバイトをしながら語学学校、高校に通います。非常に成績優秀だったようで、創立されたばかりのスタンフォード大に入学し、さらに飛び級でパデュー大に編入学して電気技術を学びました。
三崎はボーイズハイスクール生だった1891(明治24)年ごろ、スケッチ帳に水彩画を残しています。ベースボールのユニホームを着た3人がフェンスにもたれるなどリラックスしている様子が描かれ、「THE BOSS CATCHER OF THE B.H.S. NINE」という題が付いています。3人はボーイズハイスクールの友達でしょうか。
武庫川女子大(西宮市)名誉教授の丸山健夫さん(68)=情報学=は十数年前から、阪神電鉄に提供してもらった資料や三崎家に残る遺品をもとに、甲子園球場の歴史を調査・研究しています。5、6年前、遺品の中からこのスケッチ画を見つけた時、感動したそうです。
「三崎青年が約8年、アメリカにいた間、ベースボールに出会っていた何よりの証拠。しかも、ベースボールは楽しいものだと感じ、プレーヤーに憧れを抱いていた。そんな気持ちがくみ取れます」。1890年代前半といえば、日本にベースボールが伝わってまだ20年ほど。中馬庚が翻訳した「野球」という用語が使われ始める少し前です。
「三崎は若いうちから、ベースボールの魅力を知っていた。日本でも流行するとの予感があったのでしょう。甲子園球場の創設に邁進する理由、情熱の原点がここにあったのだと思います」と丸山さんは話します。
10年以上前から球場建設をイメージ
三崎は1894(明治27)年に帰国し、京都電気鉄道(のちの京都市電)など全国各地で電車の設計や製作にかかわり、電気技師としての実績を積みます。そして、1899(明治32)年に設立された阪神電鉄に技術長として入社。初代社長の外山脩造(とやま・しゅうぞう)に招かれたもので、国内初の都市間高速鉄道となる阪神電車(大阪―神戸間)の設計をはじめ鉄道建設の最高責任者となりました。
1905(明治38)年にこの仕事をやり遂げた後、沿線開発の仕事も手がけます。1910(明治43)年6月からの5カ月間、欧米の各地を視察しました。この頃につづった日記からは、ニューヨークのコニーアイランドなど大きな川の河口付近に造られた行楽地や保養地を手本にし、西宮の海岸部を「遊覧地」にしようと考えていたことがうかがえます。
「遊覧地の中心に据えようとしていたのが、野球場だった」と、丸山さんはいいます。そう思わせる史料の一つが、1908(明治41)年の手帳に残した球場ダイヤモンドの略図と球場サイズに関するメモです。英語で「少なくとも500ft×350ft以上、または、100yd四方あればよい」「本塁からバックネットまでが90ft、塁間も90ft」と書かれています。
また、1910年の秋、シカゴ大と早稲田大による関西で初の国際試合が、西宮の香櫨園(こうろえん)遊園地内に造成されたグラウンドで行われました。大阪毎日新聞社が試合を誘致し、野球ができるグラウンドを整備し、選手らの送迎などに協力したのが阪神電鉄でした。これに三崎もかかわっており、野球や球場に関する豊富な知識や経験が生かされたはずだと、丸山さんはみています。
「豊中」から「鳴尾」、そして「甲子園」へ
1913(大正2)年、大阪・豊中に本格的な総合グラウンド(東西150m、南北140m)が、箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)によって造られます。ここで2年後の1915(大正4)年、朝日新聞社が主催しての全国中等学校優勝野球大会(選手権大会)が始まりました。多数の観客がやって来て豊中では受け入れ切れなくなると、1917(大正6)年の第3回大会から、阪神電鉄が用意していた西宮の鳴尾球場に移ります。
阪神電鉄は選手権大会が始まる前年の1914(大正3)年、鳴尾競馬場のコース内側にある広大な空き地を借用し、翌々年までに野球場2面を整備していました。ほかにも陸上競技場やテニスコート、プールをつくりました。厳しい運営状況に陥っていた競馬場を、多くの人々が利用できる運動場として活用する事業を主導したのが、取締役に就任していた三崎でした。
鳴尾球場が会場として使われたのは、1923(大正12)年、第9回大会までの7年間。三崎の孫が残した手記には「その頃、中等学校の野球大会がどんどん大きくなっていた。鳴尾球場が手狭になり、人でいっぱいになっていた」とあり、三崎は対応を迫られていました。
1922(大正11)年、のちに甲子園大運動場が建設される用地が兵庫県から売りに出されます。武庫川の改修工事に伴って支流だった2つの川を埋め立てた所で、三崎は新しい球場など運動施設をつくるのに最適だと考え、購入の交渉に乗り出しました。三崎はこの年、代表取締役に昇任しています。
翌1923(大正12)年8月、第9回大会準決勝で地元の甲陽中(兵庫代表)と立命館中(京津代表)が対戦した際、多数の観客がグラウンドになだれ込んで試合が中断しました。この騒動が大球場の建設を急がせることになったとされ、阪神電鉄は同年11月28日、新球場建設を決めました。
丸山さんは「いよいよ新球場が必要だとなったとき、用地はすでに購入済み。三崎の頭の中には具体的なイメージもあった。自信をもって『来年、出来ます』と言えた。鳴尾へ移る際もそうですが、実に用意周到です。中等学校野球をずっと見てきて、もっと盛んになるという確信があったからこそ」と話します。
1924年2月6日の日記に初めて「Koshiyen」
「甲子園」の名は、1924年が中国の暦法十干、十二支それぞれの始まりで、縁起が良い「甲(きのえ)」、「子(ね)」にあたることに由来します。この名付け親についても、三崎が1月10日、商売繁盛を願う「十日えびす」を催す西宮神社に詣でた際に思いついた、とされています。
三崎が英文で書いた日記を丸山さんが調べたところ、えべっさん詣での1月10日や、阪神電鉄の重役会議があった2月1日には「甲子園」を連想させる文字は見当たりません。しかし、2月6日には、「大林組の人が『the Koshiyen ground』の設計図と見積書を持ってきた」と書かれていました。丸山さんは「えべっさん詣で三崎が思いつき、重役会議に諮ったであろうことは、ほぼ間違いないでしょう」といいます。
甲子園大運動場の設計は、2年前に入社したばかりの技師、野田誠三(のだ・せいぞう/後の阪神電鉄社長)が担当しました。3月16日に起工され、5カ月足らずの突貫工事で完成にこぎ着けました。
工事期間中は連日、おびただしい量のセメントが次々に持ち込まれるため、阪神電鉄社員や工事関係者らの間では、「まだ要るのか!まだ要るのか!」「設計が間違っているのではないか?」「こんなに広いとボールが見えないのではないか?」といったやり取りがあったと、孫の手記には書かれています。それほど、当時としては、破格のサイズだったということです。
「野球は日本人の体格、体力の向上のためのスポーツとして良い」
孫の手記には、三崎の思い、願いを伺い知れる記述もあります。
「野球は、日本人の体格、体力の向上のためのスポーツとして良いと思った」
「外国で大きな野球場を見ていたので、大きな野球場を造ろうと思った」
「誰もが使え、楽しんでもらえ、役に立つものが創りたかった(日本人の体力向上のためにも)。結果、世界で3本の指に入る、東洋一の球場が出来た」
“甲子園球場は高校野球のためにつくられたのか”と、丸山さんに尋ねました。「そう言い切って差し支えないと思います。三崎がアメリカで最初に出会ったのが高校生プレーヤーであり、日本では中等学校野球が年々盛んになるのを目の当たりにしているのですから」と丸山さんは話します。
「加えて、三崎はもっと広い視野で、深い考えを持っていた。明治の初め、まだまともな教育制度が整っていない時代です。日本が近代国家に追いつこうとするなか、より高度な事柄を学び、技術を身に付けようと、志を持った若者は海外へ飛び出して行った。何の頼りもあてもなく、時には命がけで。三崎もたいへんな苦労をしたと思います。そんな三崎ですから、日本の将来を担う若者たちをどう育てていくのか、常に考えていたはずです」