日本高野連・堅田外司昭理事インタビュー
堅田外司昭さんは1979年夏、星稜のエースとして、箕島との延長十八回の激闘を投げ抜きました。その後、社会人野球を経て審判の道へ。甲子園でも長年、ジャッジをしてきました。2023年からは日本高野連の理事として高校野球に携わっています。
2024年5月9日
堅田外司昭さんは1979年夏、星稜のエースとして、箕島との延長十八回の激闘を投げ抜きました。その後、社会人野球を経て審判の道へ。甲子園でも長年、ジャッジをしてきました。2023年からは日本高野連の理事として高校野球に携わっています。
「よしナイターや」とうれしくなった
――熱烈な高校野球ファンで、センバツの大会歌「今ありて」を作詞した阿久悠さんは、延長十二回と十六回に星稜が勝ち越した直後、箕島に2度にわたって同点本塁打が飛び出す、奇跡が織りなしたようなゲームを、題材に取り上げた詩で「最高試合」と名付けています。高校野球史に残る伝説ともいえるあの試合の思い出は。
甲子園には小学生の時、父に連れて行ってもらった阪神戦のナイターの光景が強烈に残っており、あのカクテル光線の下で一度は試合をしてみたいと思っていました。2回戦を勝った後、組み合わせの抽選に向かうキャプテンに「次は第4試合で、相手はセンバツ優勝の箕島な」と注文を付けたら、その通りになったんです。1対1の投手戦で延長に入って「よしナイターや」とうれしくなり、打者一人ずつ抑えることに集中していました。
2度の同点ホームランは仕方がないと切り替えられましたが、十八回に「再試合になった時は明日の第1試合に組み込む」というアナウンスが耳に入ってしまいました。それは仕方のないことですが、「明日は4時起きか」などと先を考えてしまい、制球を乱してしまったことは悔やまれます。
当日は興奮状態が続いていたのか、宿舎に帰って夜もなかなか眠れませんでした。地元に戻って取材を受けたりして、勝てた試合だったかもしれないという思いも湧き始めただけに、大会終了後すぐにハワイ遠征の高校選抜メンバーとして呼ばれて、気分転換できたのは良かったと思います。
野球への恩返しをしようと審判に
――卒業後は社会人野球の松下電器(現パナソニック)へ。マネージャーを経て審判になられました。
選手としては5年間だけでした。企業チームのことはよく分からず、誘われるままに入社しましたが、周りはプロを目指すような選手ばかりなのに、私はそこまで体格も大きくありません。(十八回を戦った)箕島の石井毅(現・木村竹志)―嶋田宗彦バッテリーはそろって地元の住友金属へ入社して都市対抗でも活躍する一方で、自分はしんどいなと感じていました。高校時代は左の上手投げでしたが、最後は横手投げまで投球フォームを試行錯誤していました。
このころ代わられた監督からマネージャーになることを勧められ、1週間くらい考えた末、野球から離れがたくて引き受けました。この時期は大会に向けて選手の移動や宿泊を調達する渉外の仕事、審判とのつながりなど多くのことを経験しました。春夏の甲子園に出場する高校野球のチームに松下の球場を貸していることから、日本高校野球連盟の田名部和裕事務局長(当時)とも面識が出来るなど、野球がくれたご縁にも恵まれました。
マネージャーを2年務め、この間に身近な存在になった審判として、野球への恩返しをしようと、社会人野球の大阪府野球連盟に登録しました。社会人と高校の審判交流が始まったことをきっかけに、高校生の試合でも審判を務めるようになりました。
球児の全力プレーを引き出すために
――その後、2021年夏まで、春夏の甲子園大会で19シーズンにわたって審判を務められました。その間、特に大切にされたことは。
高校野球は教育です。心を大事にしないといけません。私はグラウンドで選手との対話を重視しました。試合に出る選手の一番近いところで声を掛けながら、一緒にいい試合を作って、最高の試合をしてもらいたいと考えていました。
甲子園だけではありません。大阪大会の1、2回戦では大差が開いてコールドになる試合も少なくありません。負けているチームの監督が敗戦直前に、三塁コーチを務めていた選手を呼んで代打起用することもあります。突然指名された選手は体も動かさず、慌ててバットを持って打席に入ろうとします。捕手には「ちょっと待ってあげて」と話し、打者には「素振りはしたか」と声を掛ける。テンポ良く試合を進めることも大事ですが、これで高校最後になる選手たちにも、何年たっても心に残る試合だと思えるよう、彼らの全力プレーを引き出す。個々のケースは現場に任されますが、これが先輩たちから引き継がれてきた高校野球の審判です。
みんなで支えていける態勢作りを
――その審判の成り手を増やそうと、日本高野連などが進める「高校野球200年構想」では、審判の育成を主要助成事業の一つとしています。
私は審判の現役時代、全国各地の地区別講習会へ赴いた際、モデルチームとして参加してくれる地元の高校生たちに、声を掛け続けていました。「おっちゃん、選手として甲子園に出たことあるんや。審判としても甲子園に出てるんや。高校野球が終わっても、甲子園の土に立つチャンスはあるで」と。それを聞いた選手たちは「あっ、そうなんや」と目を輝かせます。高校でプレーヤーを終えても、野球の魅力を知っている選手たちには、ぜひ審判として野球に関わり続けてほしいと思います。
週末は試合があるため、家庭の協力がないと審判は続けられません。しかし、これからの時代は家庭をないがしろにして審判は長続きしません。そのためにも、多くの人に審判登録してもらって、都合のつかない時は補い合えるように、みんなで支えていける態勢作りができればいいなと考えています。