インタビュー

2025年2月20日

学生野球こそ日本野球の原点

日本高野連・佐山和夫顧問

日本高野連理事・佐山和夫顧問さん

日米野球史にまつわる多数の著作を手がけてきたノンフィクション作家の佐山和夫さんは、野球界の発展に寄与した功績が認められ、2021年に野球殿堂入りしました。日本高校野球連盟の顧問、選抜高校野球大会の21世紀枠特別選考委員なども長く務めている佐山さんに、高校野球との深いかかわり、その未来について語ってもらいました。

高校教員になって野球好きがぶり返した

――高校野球に興味を持つようになったのは。

小学生の頃から、野球が大好きでした。戦中から戦後にかけて、父親が旧制和歌山中学(現・桐蔭高)の教員で、家は校内にあった官舎。野球部の練習を見るのが楽しくて、ファウルボールを拾い集めるボールボーイをしていました。物のない時代なのに、母親がユニフォームを縫い、胸に選手と同じ「W」のワッペンも縫い付けてくれました。戦後初めて西宮球場で再開された大会(1946年8月)も、それを着て見に行きました。

「マラリアと野球はぶり返す」という格言がアメリカにありますが、私の場合、高校の教員になったあたりで、野球好きがぶり返したのでしょう。

物書きになる前のその頃から、日本高野連会長宛てに提案を行っていました。甲子園へは毎年のように見に行って、感じることが色々あり、「大会運営に高校生も参加させてみては」「プラカードは、勉強やボランティアなど様々な分野におけるその学校の模範的な生徒に持たせては」などと、好き勝手なことを手紙に書いて伝えていました。

戦後最初に再開された第28回全国中等学校優勝野球大会は西宮球場であり、佐山さんも観戦に訪れた=1946年8月15日(朝日新聞社提供)戦後最初に再開された第28回全国中等学校優勝野球大会は
西宮球場であり、佐山さんも観戦に訪れた=1946年8月15日
(朝日新聞社提供)

アメリカとは違う形で広がった日本の野球

――1996年の日本高野連創立50周年式典では「野球の原点から」の題で講演されました。

当時はプロ野球がたいへんな人気で、プロのほうが技術的にもうまいし、プロ野球のほうが上だ、と考えている高校野球関係者も多かったような印象です。

でも、歴史的にいうと、日本の野球は学生野球が原点です。1872(明治5)年、まず東京の第一大学区第一番中学で、アメリカ人の数学教師だったホーレス・ウィルソンが学生に手ほどきしました。東大の前身である一高、つまりエリート校で始まったものだから、他校の学生もまねをしました。大正に入ると中等学校の全国大会も始まり、ルールと共に、ゲームの精神性までが路地裏の子どもたちにまで伝えられていきました。

プロ野球リーグができたのはずっと後の、1936(昭和11)年。学生野球が「上から下へ」の流れで広がり、プロ野球はその余熱の中で生まれたものでした。

アメリカのベースボールは、子どもたちが草の上で軟らかいボールを打ち、走者に球を投げ当てる遊び「タウンボール」が始まりで、地域でタウンミーティングやパーティーを催す時に、大人も楽しむようになりました。1845年、マンハッタンで消防団を率いていたアレキサンダー・カートライトが初めてクラブチームを作り、本格的な試合ができるようにルールを設けたのが「ベースボール」の発祥です。

クラブが増えると、より多くの見物人を集めようとしてビジネスに変わっていく。早くも1850年代には個人的にプロになる選手が出てきて、60年代にはもう全員がプロの球団ができました。このようにベースボールは日本の場合とは逆に、「下から上へ」という流れで普及・発展し、プロが頂点になりました。

つまり、アメリカと日本とでは普及過程が全然違う、という話をしたのです。そうしたら、「あっ、そうなんだ」「驚いた」という方が多く、「再認識した」という方もいました。

地方にもよく行き、各地の高野連の皆さんとも縁が深まりました。話すテーマはその時々のものでしたが、基本的には〝ベースボールとは何なのか〟〝日本野球はアメリカとは違う構造になっている〟というその本質を理解してもらうためでした。あるベテランの監督さんは「俺、野球にずっと命かけてきたと思っていたけど、何にも知らないものに、命かけてきたんだな」としみじみ話されていました。

ホーレス・ウィルソンを顕彰するレリーフ ホーレス・ウィルソンを顕彰するレリーフ

フェアプレーの精神育んだ指導者3人

――2年ごとに発行される「高校野球審判の手引き」にコラムを寄稿され、2005年度版の「インフィールドフライ・ルールなんて」は、学生野球の精神について書かれている。

1895(明治28)年にアメリカでインフィールドフライのルールができたとき、一高野球部の部員が「私たちもそのようにしましょうか」と、顧問だった中馬庚に尋ねたそうです。それを聞いた中馬は「簡単に捕れるフライをわざと落として、2つアウトを取ろうなどと考えるやつなんか、うちにはいない」と言って採用しなかったそうです。

このようなフェアプレーの精神を一高野球部が大事にするようなったのは、ウィルソンはじめ、イギリス人教師のフレデリック・ストレンジ、そして、「野球」という日本語訳を初めて使って指導書をまとめた中馬庚の3人が、偶然にもほぼ同時期に一高にいたからこそでしょう。

ウィルソンは、教室に閉じこもりがちだった学生たちをまずは外に連れだし、体を鍛えるために、ベースボールを教え始めた。ストレンジは、「競技では最善を尽くす」「公明正大にやって卑怯なことはするな」「負け惜しみは一切言うな」といった精神論を説いた。ウィルソンが仏を作り、ストレンジが魂を入れた、ということでしょうか。一高野球部のコーチ役となっていた中馬庚は、ストレンジの教えは武士道にも通じるものがあると自分なりに咀嚼(そしゃく)し、学生に分かりやすい言葉で伝えました。

これは、後々の学生野球の発展にとって大きな幸運だったと、私は考えています。

第79回選抜選考委員会の21世紀枠推薦理由説明会で特別選考委員として各校についての報告を聞く佐山さん=2007年1月26日(毎日新聞社提供) 第79回選抜選考委員会の21世紀枠推薦理由説明会で特別選考委員として各校についての報告を聞く佐山さん
=2007年1月26日(毎日新聞社提供)

21世紀は違う価値観を大切に

――日本高野連は1997年、会長の諮問機関「21世紀の高校野球を考える会」を発足。専門委員7人のうちの一人となりました。

当時、牧野(直隆)会長は私が出していた提案をよく考えてくださり、田名部(和裕)事務局長のご努力もあって、記念大会(翌98年の第70回選抜、第80回選手権)で実現したこともありますし、選抜大会の21世紀枠など数年後の導入につながったものもありました。

「考える会」の正式な場で話したわけではありませんが、選抜大会の出場校は、夏とは違う選び方が良いと思っていました。20世紀は戦争の世紀で、勝つことが何より大事だった。しかし21世紀は、勝ち負けではなく、これまでとはまったく違う価値観、発想を大切にしていくべきだと。

教師時代の経験にこんなことがあります。英語を朗読させた生徒が、たまたま少しばかりうまかった時、「おお、お前、うまいじゃないか。いけるぞ」なんて褒めると、周りも「おおーっ」と言って喜ぶ。2週間くらい後に、再び同じ生徒に朗読させると、今度は格段にうまくなっていました。ちょっと褒めただけなのに、あの年齢の者は確実に伸びるんです。練習をよくやり、自信もつくのか、とにかく激変する。この年代って、どんな分野でも、きっと同じようなことがあるのでしょう。野球でもそんなことがあり得るのではないかと思ったわけです。

高校野球は〝世界遺産〟

――日本の高校野球は〝世界遺産〟だと評価されています。その理由は。

全国に3000以上の高校チームがあり、春と夏の2回、あの甲子園球場で全国大会が開かれます。地域の代表が出場し、学校も地域もみんなで応援する。しかも、フェアプレーであり、基本に忠実で、チームプレーに徹する。日本野球精神の良いところがいっぱい詰まっています。日本に来て、本場のアメリカ野球には見られない精神性を高めた野球が、現代にまで引き継がれているのです。

これほどの歴史伝統、規模を誇るものは、アメリカにも、中南米にも、他のアジア諸国にもありません。世界中のどこを探しても見当たらないとなると、もう自動的に〝世界文化遺産〟ですね。

第106回全国高校野球選手権大会の開会式で整列した選手たち
=2024年8月7日(朝日新聞社提供)

試合に負けても〝勝利〟を見つけて

――これからの高校野球に期待することは。

試合の前後、ホームベースの前に並んで礼をすることは、1915(大正4)年の第1回選手権大会から行っています。これは何を意味するかというと、相手に対するリスペクトです。子どもの頃から、こんなことを重んじて続けているのは日本だけです。

大リーグの大谷翔平は審判と目が合うとすぐに、ヘルメットのつばに手をあて、ちょこっと頭を下げて挨拶する。高校時代からの癖でしょうが、立派なリスペクトの表現です。佐々木朗希がWBCでチェコの選手にデッドボールをあてた後日、お菓子を持って謝りにいきました。ささいなことですが、日本人や日本の評価を高めているのは間違いありません。大人になってからリスペクト云々と言われなくても、最初から身についているところが、すごいんです。

高校時代に身につけた相手を思いやる野球は、今や大リーグの価値をも高める役割を果たしている事実を見てほしい。日本野球がベースボールという球技の本質にまで与える影響の大きさは、はかり知れません。

夏の大会に参加する数千校のうち結局、負けないのは1校のみ。他はすべてどこかの時点で負けるわけです。かわいそうだと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、負けを「失敗」と考えることはやめた方がいいと思います。負けは「失う」ことでではなく、「得る」ことでもあるんです。試合に負けたからといって、すべてが失敗だったわけじゃない。

試合を戦争(WAR)だとすると、WARの中に、たくさんのバトル(BATTLE)がある。個人的なBATTLEの集積がWARだ。「試合には負けたけど、仲間との信頼を深められた」。あるいは、「自分の能力に目覚めた」「次のテーマを発見した」など。これらはすべて一つの立派な「勝利」ではないでしょうか。個々人の、様々な勝利をもっと評価すべきだと思っています。

ポジティブなこと、何らかの成果、得るものがあれば、指導者は、目ざとく見つけ、評価してあげてほしい。チームメート同士でも、周りにいる人たちが、言葉でいいですから、評価してあげる。やった本人としては、救われたような気持ちになります。周りが言葉をかけてあげるだけでも、全然違ったものになっていくと思います。

野球殿堂入りし、日本高野連の庭にある銅像の前で話す佐山さん
=2021年1月14日
佐山 和夫(さやま・かずお)
1936年8月18日、和歌山市生まれ。田辺市在住。
和歌山県立田辺高校から慶応大学へ進み、会社員、高校の英語教師などを経てノンフィクション作家に。
日米の野球史に詳しく、アメリカ黒人リーグの伝説的な投手サチェル・ペイジの人生を描いた「史上最高の投手はだれか」(1984年/2021年に完全版)をはじめ、 「野球とクジラ/カートライト・万次郎・ベースボール」(1993年)、「ベースボールと日本野球/打ち勝つ思考、守り抜く精神」(98年)など著書多数。
2007年の第79回選抜大会から21世紀枠特別選考委員、日本高野連顧問、阪神甲子園球場歴史館顧問も務める。
21年に野球殿堂入り(特別表彰)。

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